2011年8月15日月曜日

まこと 2011年3月15日


日付    2011年3月15日2:38
件名    全員無事です
送信元    gmail.com
   
詳細を隠す 3月15日
   
由紀枝です
たった今 クライアントさん 関係業者さんの全員無事が確認取れました
ご心配をして頂き ありがとうございます
まずは ご連絡まで




日付    2011年3月15日15:05
件名    Re:全員無事です
送信元    ezweb.ne.jp
   
よかったね。
クライアントさんも由紀ちゃんの気持ちを嬉しく思っていることと思いますよ。
ビジネスといっても、基本的には人と人の思いやりや信頼が大切だからね。




日付    2011年3月18日15:05
件名    こんにちわ!
送信元    gmail.com
署名元    gmail.com
   
詳細を隠す 3月18日
   
厳しいコメントにちょっと戸惑ってます。

私が他の女性にうつつをぬかしてるって・・・私はログを通してコメントのやり取りをしているだけのことだよ。
由紀ちゃんみたいにアドレスを交換してる人なんか1人もいないし、もちろん会ってもいないんだけど、これでも嫌いって言われちゃうとどうしたらいいのか困っちゃいます。

トイレの件は、緊急時に呑み水にもこと欠くような事態になった時にはこういうこともありますよっていう意味で書いたんだけど、それでもちゃんと安全性を確認しなければならないということになると、気楽にアイデアを出し合うこともできないよね。
確かに水道の蛇口から採る水の方が安心感があるのは分かるけれど、緊急時にはそうもいかないことってあるでしょ。
そういう場合のことを言ってることは分かってもらえないかな~?
蛇足だけれど、実際の高架水槽の中は藻が生えていたり、ゴミや虫が浮いていたり、時にはネズミの死骸が浮いてることもあるけれど、そういう水を呑んでいても何事も起こらずに済んでいることが多いですよね。

私が思うには、物ごとの判断の仕方として、何が正しいかではなく何が妥当か大切だと思うよ。そうすると選択肢はいくつにもなって判断に迷うこともあるけれど、正論ばかり求めていては状況に応じた判断ができないこともあるんじゃないのかな?
今、福島の原発の燃料の冷却が注目されているけれど、そのやり方はいくつかあって、従事する人間の安全性や放水による効果などが、いろいろと検討されているよね。あれなどは正当性というよりも妥当性の選択じゃあないかなあ。
呑み水も、正論を言えばトイレの水を飲むのが正しいなんておもわないけれど、緊急時にはやむを得ないんじゃないかなと思ったわけです。

それから、最近は由紀ちゃんとメールがなんだかぎくしゃくしてるみたいで悲しい想いをしてるんだけれど、コミュニケーションについての私の考えを話しておきますね。
理想を言えば、お互いに性格や考え方などすべてを分かりあって、言葉を弄しなくても気持ちが通じ合えるようになれれば最高なんだけれど、そういう関係をつくるのには少なくとも顔と顔を合わた繋がりが日常的にされることが必要と思います。

コミュニケーションについていえばこんなことを聴いたことがあります。
人が相手に伝えたい心を言葉として表現できるのは75%。相手の心に受け止められるのは50%マイナスαだというのです。
ということは、話しては自分の想いを100%言葉に表現したつもりでいるけれど実際は75%でしかない。相手には半分も伝わっていない。
聴き手は自分が受け止めたことが、相手の伝えたいことのすべてであるかのように思ってしまうけれど実際は半分もないということになります。
こういうずれが誤解や行き違いにつながるのでしょうね。
また、人の喜怒哀楽の感情は言葉よりも眼や顔の表情や身振り、手振りで伝わるほうが多いそうです。
もちろん個人差はあるはずだし、話の中身によって伝えやすい、難いはあるでしょうね。
ではどうしたらいいのでしょうか。
よくは分かりませんが、少なくとも以上のようなことをお互いが認識をもっておくことは必要なように思うのですがどうでしょうかね。

こんなことを想うと、メールのような文字だけのコミュニケーションって、人の気持ちや感情や心のひだといった複雑微妙な部分を伝えるのにはあまりにも不完全のように思います。
メールではよくカッコをつけて(笑)とか(涙)などと書き添えて感情を文字で表現するのは、そうした不完全さを補おうということでしょうね。
そんなことを想うと、由紀ちゃんと私の意思の疎通がどこまで可能なのだろうかと考えてしまいます。
由紀ちゃんのことをいろいろと知りたい、分かりたいとは思っても名古屋と横浜では日常的に会うことは無理だし、限界があるのかな~なんて思うとちょっと悲しくなりますよ。




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